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SEED
CONTACT LENSES
STORY.

シードのこれまでとこれから

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シードのコンタクトレンズが生まれたのは、
60年以上も前のことである。
時代とともに変わっていく人々の需要。
それに伴うたくさんの挑戦と失敗。
シードの歴史はコンタクトレンズそのものの
歴史とともに歩んできた。
そして、コンタクトレンズに求められるものが
再び変わりはじめた今。
シードは次なる挑戦へと向かっていく。

1927-

1970-

1991-

1927- シードコンタクトレンズが
できるまで

  • 写真写真提供:中野区
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父が遺した美眼院

たった7日間で昭和元年が終わり、洋装を纏ったモダンボーイ・モダンガールが街中を歩く1927(昭和2)年。シードの創設者である厚澤弘陳は、東京都中野区で生まれた。草木を育てることが好きなおとなしい少年だった。

当時、厚澤の父である厚澤銀次郎は東京帝国大学(現在の東京大学)に在籍し、ガラス製義眼の実用化の研究をしていた。ガラス製義眼はヨーロッパからの輸入品であり、日本人の眼には合わない。そのため銀次郎は日本人にも合うようにオーダーメイドでガラス製義眼を国産化しようとしていたのだ。1930(昭和5)年ごろ、銀次郎はガラス製義眼の国産化に成功。東京都文京区にアツザワ美眼院を構えた。

そして1950(昭和25)年。銀次郎が亡くなり、厚澤は23歳で美眼院を引き継ぐこととなる。銀次郎から技術的な指導を受けることがなかった厚澤は、たったひとりで義眼のオーダーメイドに取り組んでいた。

コンタクトレンズを知っていますか?

アツザワ美眼院の近くには順天堂大学医学部がある。厚澤はそこで眼科教授である佐藤勉に義眼について教わっていた。佐藤は1948(昭和18)年に順天堂大学初代眼科教授に就任し、近視や乱視の研究で今日の屈折矯正手術に大きな影響を与えるほか、1952(昭和27)年にはアメリカで開発されたコンタクトレンズを日本で初めて導入した人物だ。

ある日、佐藤は厚澤にこんな話を持ちかけた。
「厚澤さん、君はコンタクトレンズを知っていますか?」

もちろん、これまで義眼の研究ばかりしていた厚澤にとって、その単語は初耳である。
「知らないです。コンタクトレンズって何ですか」
「目の中に入れる眼鏡ですよ」
想像して、ゾッとする。
「そんなの、痛いじゃないですか!」
佐藤は笑いながら続けた。
「いやいや、そうじゃなくてね。強膜(白目)も含めて角膜のところに乗るような薄いレンズのことです。これをね、君に研究開発してもらいたいんです。絶対成功すると、僕は思っているんですよ」
たったひとりで義眼を製作している厚澤に新しく研究を行う時間などない。それに、当時のコンタクトレンズに対する世間の評価は「あんなものを入れたら目が潰れる」と、散々なものだった。

「佐藤さん、すみませんが…」

厚澤はあっさりと佐藤の頼みを断ってしまう。しかし、その日から佐藤のところへ行くたびに熱烈なアプローチを受けることとなった。何度も断り続けていた厚澤だったが、次第に心境の変化が訪れる。

「世間の評判がそこまで悪いなら、私がいいものを作ればいいのではないか…?」

そんな考えが芽生え始めたのだ。時間も費用もないが、この研究が成功したら眼科医療を大きく変えることができるかもしれない。厚澤は覚悟を決めた。

「…佐藤さん、コンタクトレンズの研究を私にやらせてください」

無給の親不孝もの

厚澤は順天堂大学の無給職員となり、佐藤から研究室の地下の一角を借りて研究を始めた。日本で初めてのモールディング(型取り)によるコンタクトレンズの研究開発である。

バターの空き缶を使った厚澤お手製の試作機に、熱したプラスチックを入れてレンズの形に成形する研究を、月曜日から土曜日まで毎日続けた。成形には雄型と雌型が必要になる。雄型をつくるには患者の眼に石膏を流して型を取らなければならない。石膏が固まるまで患者は瞬きができず、とてもつらそうだったという。患者から取った雄型と自作の雌型の間に溶かした樹脂を流し込み、成形する。できあがったものを眼科の処方箋をもとに患者の視力と眼の形状に合うよう、さらに手研摩で加工する。当時のコンタクトレンズは強膜(白目)まで覆うお椀のような形で、直径は22ミリメートルもあった。

厚澤は無給職員だ。研究費用はかかるが、収入はまったくない。そのため厚澤の母は蓄えを切り崩し、家財を切り売りしながら何とか家計を支えていた。

ある年のこと、税務署に「所得なし」と申請した母が呼び出された。若い職員に「お宅の息子は随分な親不孝ものだ。父親が亡くなって、働き手がないというのにコンタクトとか何とか、よくわからない研究をして。売れそうにないものをつくっても仕方ないでしょう。1日でも早くちゃんとした仕事に就くように言ったらどうですか」と言われてしまったという。泣きながら帰ってくる母を見て、厚澤は申し訳なさともどかしさを感じた。もう、やめてしまおうか…。そんなことすら思った。

東京コンタクトレンズ研究所の設立

プレスしたプラスチックをひとつずつ手研摩で仕上げるのは効率が悪い。1枚作るのに何時間もかかってしまう。そこで、佐藤の「旋盤(加工するものを回転させ、刃物を当てて所要の形に切り削る機械)でつくったほうがいい」というアドバイスをもとに、厚澤は機械専門家とともに幅2メートルほどの球面切削旋盤を完成させた。これにより処方箋で指示された度数と曲率半径を有するコンタクトレンズを1日に20人分、両眼で40個製造できるようになった。

そして1957(昭和32)年。ついに、コンタクトレンズの量産化に成功したのである。それとともに、東京都文京区に株式会社東京コンタクトレンズ研究所を設立した。

この球面切削旋盤による製法は、特許も取得した。特許請求の範囲が「コンタクトレンズ」という短い文章であったものの、今後新たにコンタクトレンズの製法などで特許を得ようとする場合、厚澤のこの特許が目の前に立ちはだかるほどコンタクトレンズのすべてをカバーする広範囲な特許であった。

特許取得後、佐藤は「この特許をひとりで抱え込むのではなく、他のメーカーにも無償で所有権を認めてほしい」と厚澤に頼んだ。「コンタクトレンズを全国に普及させるんだ」と。厚澤にとっては苦労に苦労を重ねてやっと取得した特許である。しかし、佐藤の熱い想いに胸打たれ、厚澤は会社の宝でありこれからの社業発展の礎となる特許の権利をコンタクトレンズ協会(現:一般社団法人日本コンタクトレンズ協会)に委託したのだった。

マイコン、誕生

1962(昭和37)年、東京コンタクトレンズ研究所初のブランド「マイコン」が誕生した。マイコンとはマイ・コンタクトレンズの略である。コンタクトレンズの傾斜面とエッジの加工に優れ、スムーズに装着できる点がマイコンの特徴だ。

厚澤のコンタクトレンズは意外なところでも活躍した。歌舞伎役者の八代目松本幸四郎が盲人の景清を演じるに際して「失明したような真っ赤なコンタクトレンズを作ってほしい」と順天堂大学に相談したことから、その話が東京コンタクトレンズ研究所にやってきたのだ。厚澤は赤い血管が浮き立っているようなコンタクトレンズを作成。真っ赤なコンタクトレンズをつけて演じた幸四郎は「演目の内容と技術的な面が非常に珍しい」と評価され、東京演劇記者会が主催するテアトロン賞を受賞した。非常に喜んだとともに、厚澤との個人的な親交も深めたという。

1970-コンタクトレンズ産業の拡大

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大阪に眠るマイコンセブン

マイコンの登場後、社業は順調に上向きとなっていった。1970(昭和45)年に大阪で開催された日本万国博覧会では、当時販売していたハードコンタクトレンズ「マイコンセブン」と東京コンタクトレンズ研究所のルーツともいえる厚澤弘陳製作の義眼がタイムカプセルに収められることになった。このタイムカプセル「EXPO’70」は、松下電器産業(現:パナソニック株式会社)と毎日新聞社によって企画・製作されたものである。大阪城公園内に埋められたマイコンセブンと義眼は、今でも5,000年後の開封の時を待っている。

両眼で4万円

東京コンタクトレンズ研究所の設立からしばらく経ち、東京都文京区に第一研究ビル(通称イチケン)が建てられた。ここが、コンタクトレンズ製造の拠点となる。

当時のコンタクトレンズは球面切削旋盤で量産が可能になったものの、まだ手作りの域を出ない製品だった。しかし、良く言えばオーダーメイド。販売店を回る営業が小型の卓上旋盤を持ち歩き、お客様のリクエストに応じてレンズの度数を調節するなどサービス面での強みがあった。

オーダーメイドのコンタクトレンズ、当然価格は高額なものだ。大卒初任給が約4万円だった1970年代、コンタクトレンズは両眼で8,000円だった。これは給料の2割に値する。仮に現代の初任給20万円とするならば、4万円という価格。なかなか手を出せるものではない。しかし、技術の進歩から少しずつではあるが、一般的にもコンタクトレンズの認知は広まりを見せた。

ものづくり文化を強みに海外へ

手作り的な製造の強みは、日本に根付くものづくり文化だ。数が少なくても、高価でも、職人技の品質がものを言う。安定した品質は海外展開への強みにもなり、1970年代にはハードレンズを東南アジアに輸出していた。

1972(昭和47)年、日本で初めてのソフトコンタクトレンズ「マイコンソフト」を発売。しかし、マイコンソフトは度数を安定させることが難しく、海外に輸出するほどの数を確保することができないため、素材の輸出のみにとどまっていた。いずれにしても、この時期の日本のコンタクトレンズ産業は国際的に見ても高いレベルにあったことがわかる。

ソフトコンタクトレンズの受難

マイコンソフトを発売したものの、1970年代の主流はハードコンタクトレンズだ。
新参者のソフトコンタクトレンズは一部の医師から「水増しレンズ」と揶揄されていた。煮沸消毒をしないとカビが生えてしまうなど衛生的ではないという理由からだ。また、手入れが面倒だと一部の消費者からも敬遠されていた。しかし、最大の強みである装用感の良さから需要は徐々に高まり、発売当初の出荷数から倍に増えるまで時間はそうかからなかった。

とはいえソフトコンタクトレンズを良しとしない人がいることは事実である。そこで、ハードとソフトのいいとこ取りをしようと、ソフトレンズを土台にハードレンズを組み合わせた製品(角膜にあたる凹部分はソフトレンズで加工し、凹の光学部分にはハードレンズを加工して、ソフトレンズに埋め込んだ特注品)を販売した。しかし、先進的なコンセプトが市場に浸透することなく、失敗に終わってしまうのだった。

その後、1977(昭和52)年には含水率を70%にまで高めたソフトコンタクトレンズを発表。装用感の良さを極めたこのコンタクトレンズは、夢のようなコンタクトレンズとして「ユメコン」と名付けられた。しかし、水分量が多すぎることから角膜に吸着してしまうという問題が発生し、程なくして市場から消えることとなる。

改革のシード、迫り来る黒船

社名を東京コンタクトレンズ研究所から株式会社シードに改名したのは1987(昭和62)年のことである。ここから、シードの大改革が始まった。

1988(昭和63)年、埼玉県に設立した大宮研究所にてはじめてNC旋盤を導入し、ようやく製造工程が自動化。
その次の年には上場(現:JASDAQ)を果たした。さらに1991(平成3)年には第一研究所と大宮研究所を合併し、桶川研究所を設立。ここでついに本格的な製造ラインが確立された。また、1993(平成5)年には「眼の専門総合メーカー」という企業理念のもと眼鏡事業にも参入。

次々にシードの快進撃が繰り広げられていく。
一方で、コンタクトレンズ産業を大きく揺るがす黒船が、日本に近づいていた。
※NC旋盤:数値制御(NC)装置に加工プログラムを入力して、工作物を自動的に加工する旋盤のこと。

1991-変わるコンタクトレンズの需要

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ものづくり文化が通用しない

「使い捨てなんて、消費者に受け入れられるはずがない」
1991(平成3)年、1週間(連続装用)タイプの使い捨てソフトコンタクトレンズが海外から投入された当初、国内メーカーはそう思っていた。ものづくり文化で作りあげた製品こそ、日本の消費者の需要に合っていると信じていたからだ。

ところが蓋を開けてみると、使い捨て※1ソフトコンタクトレンズはじわじわと市場を埋め尽くしていった。使い捨てになったことで衛生面の問題がクリアされ、これまでハードコンタクトレンズを推していた医師たちも使用を推奨し始めた。この流れから、事態を静観していた国内メーカーも海外のOEM生産※2によって新たな市場に参入することとなる。これまで日本のコンタクトレンズ産業の強みであったものづくり文化は、使い捨てソフトコンタクトレンズの前では意味をなさなかった。
※1 頻回交換、定期交換を含む。
※2 他社ブランドの製品を製造すること。受託製造。

2weekPureで狙う逆転

使い捨てソフトコンタクトレンズは、職人気質のものづくり文化とは真逆の大量生産・大量消費が基本である。国内メーカーは苦戦を強いられ、撤退していく企業も少なくなかった。シードにとっても厳しい状況である。しかし、まだ諦めたわけではなかった。1997(平成9)年にOEM生産による2週間タイプの使い捨てソフトコンタクトレンズ「フォーティーンUV」を、2001(平成13)年には「2weekFine」を市場に投入。その間に自社製造に向けた構想も練っていた。とはいえ、いきなり大量生産に対応することは一朝一夕のことではない。

従来のシードが追求してきた製法は、ボタン状にカットした素材を旋盤でひとつずつ削り度数をつけていく「レースカット製法」だ。一方、使い捨てソフトコンタクトレンズの製法は射出成型した樹脂型に、素材を流し入れて作る「キャストモールド製法」。この決定的な違いは小手先の対応でどうにかなるものではなかった。

その後も研究を重ね、シードの製造ラインに待望のキャストモールド製法が登場したのは2004(平成16)年のことである。この製法を使って同年、自社製造による2週間タイプの使い捨てソフトコンタクトレンズ「2weekPure」の販売をスタートさせた。しかし、この間にも市場は変わっていく。2weekから1dayへとさらなる進化を遂げたのだ。2weekのユーザーが1dayに移行すれば単純計算で15倍のレンズが必要になる。時代はさらに大量生産・大量消費へと向かっていったが、シードにはそれだけの大量生産を可能にする術はなかった。

社運をかけた60億円

海外メーカーの多くが1dayの大量生産に舵を切っていくなか、このままではシードも窮地を迎えることは必至だった。もう、後がない。絶体絶命で下した大きな決断。それは、埼玉県鴻巣市に新たな研究所を設立することだった。建設費用は60億円。当時の年間売り上げが100億円だったことを考えるとまさに、社運をかけた投資だ。

そして2007年、鴻巣研究所が完成した。広大な敷地に大規模な製造ライン。これでようやく海外メーカーに立ち向かうことができる。鴻巣研究所の強みはこれだけではない。高い品質を確保しながら、多品種少量の製造にも対応する柔軟性により、多様化する消費者ニーズを製品に反映することも可能になった。

再び、ものづくり文化の時代へ

これからのコンタクトレンズ産業に求められていることは、高度で専門的な製品を生み出すことである。例えば、高齢化するアジア市場に向けた遠近両用コンタクトレンズや、極小CPUを搭載した医療用スマートコンタクトレンズなどがそれにあたる。また、近視の進行抑制や薬剤との融合などの機能も期待されている。これは、医療製品から一般製品となっていったコンタクトレンズが、やや医療側に戻るということだ。より高度な技術力と品質が求められているなかで、コンタクトレンズ産業は再び、ものづくり文化が強みとなる時代を迎えている。

地下室の一角で厚澤が研究をスタートさせたあの日から、シードはいつもコンタクトレンズの最先端を目指してきた。これからも、ものづくり文化を携えてコンタクトレンズ産業を牽引していく。